1586年島津侵攻北九州霸主大友家時,受到高橋家頑強抵抗。
宗茂的老爸,高橋紹運不顧宗茂的勸退死守岩屋城,讓進攻的島
津忠長、伊集院忠棟約20000人軍勢蒙受重大損失並因戰事拖延過
久讓島津九州制霸夢碎。 島津在圍城時因敬佩紹運的器量多次
勸降,但紹運為了守護大友家寧死不退,最後城破人亡,包含紹
運在內763名全部討死,紹運切腹身亡。 而後島津亦包圍立花山
城,立花宗茂亦頑強抵抗。 憑其智勇雙全之姿讓島津方蒙受巨大
損失,而後豐臣主力登陸九州。 島津軍退守,宗茂也趁此時收復
岩屋城,寶滿城,其忠義之姿更讓秀吉欲攬為家臣。 然而不論對
島津還是立花,兩方都是不共戴天的仇敵。
1597-98年慶長之役,(「羽柴左近(宗茂)事、慥かなる仁に
て御座候、しかし、その身若く候間、嶋津・鍋島城の間に一城
取り拵え、在番致され候へ」とある(「旧記雑録後編三」三一
二号)。) 因石田三成等奉行眾之故。 義弘忠桓父子跟立花一起
被分配到鍋島直茂的城裡擔任警備任務。(秀吉真的很會這招...)
就這樣不共戴天的仇人突然變成搭檔而開始有了敵對以外的交流。
隨著朝鮮之役的演進跟患難與共,宗茂跟義弘間產生了微妙的變
化,親子般的的年齡差距更讓宗茂自然而然間尊敬起義弘這位父執
輩般的戰友。 1599年在伏見的島津屋敷發生重大事件,忠桓手刃
家老筆頭伊集院忠棟。(而後爆發庄内の乱) 事件發生後,忠桓被
令去高雄蟄居,在立花宗茂、寺沢正成及小西行長的陪同監視下被
送往高雄蟄居。(「種子島家譜」四)一個月後,宗茂、寺沢正成
及忠桓父子立誓起草文書。(「談合」して心底を残らず話し合い、
決して他言しないことを誓約している(「旧記雑録後編三」七〇
四号)。) 起誓文書內容不明,此後庄内の乱發生,立花宗茂亦除
派遣援軍支援島津家外也送文書勸島津義弘父子服從德川政權,但
援軍被婉拒。
而後關原之戰,兩個人都投效西軍。戰敗逃跑時,宗茂至大阪城
救其生母・宗雲院逃出,在木津川河口時被犬子嶋の関所守衛所阻
擋,在立花宗茂怒斥下守衛才趕緊開門放行。 而後宗茂派遣部下
去大阪城救出島津忠恒夫人・亀寿や義弘夫人・宰相殿(広瀬氏)
兩人。並於1600年9月19日與義弘合流,計50艘船一起回九州。
(「帖佐彦左衛門宗辰覚書」)。宗茂と義弘の船は西宮沖を発し
、瀬戸内を西に進んだ。ともに五十余艘そうの船団だった。
両雄が対面したのは周防国屋代島やしろじまの日向泊ひゅうがどまり
(現・山口県大島郡周防大島町)という小さな港だった。二十六日
、宗茂が年長の義弘の船を表敬訪問した(「惟新公関原御合戦記」)。)
「喜悦の余り落涙数行すうこう、死を逃のがるるの幸ひを賀し、
往事談じ、再会を期して相別わかる」武勇で知られる両雄が久しぶりに
再会して喜び合うとともに落涙したというのだから、その苦難のほどが
察せられる。なお、このとき、宗茂は義弘に「善悪共に御下おしたに参
る儀」を誓い、両家の結束を確認している(「旧記雑録後編三」一一九
〇号)。 兩人對能死裡逃生會面而感到高興落淚,一同談論往事並珍重
再會。 除此之外,更立下兩家友好的誓約。
而後黒田如水・加藤清正・鍋島直茂等人進攻立花宗茂,島津雖派遣援
軍卻為時已晚。 投降的立花宗茂無奈被迫擔任先鋒進攻島津家。(宗茂
は東軍勢の先手となり、肥薩国境に向かう。しかし、宗茂の目的はあく
まで和平交渉だった。日向泊での誓約を履行したかったからだろう。宗
茂は義弘父子に書状を送り、徳川秀忠の九州出馬を伝え、その大軍が着
陣する前に和睦したほうがよいと勧めている(右同書一二五六号)。)
再舉兵前往肥薩國境時,派前使者送文書給島津,告知如果不降德川秀
忠會親率大軍征九州的消息。島津家最終只得接受降伏一途。
然而,與島津安堵不同的是,宗茂被改易成浪人。 1603年4月,義弘
遣人送文書給宗茂,表達其關心安慰之意。(右同書一八一二号) 而後
快20年立花宗茂才恢復柳州大名身分。
註..雖然這小說性質很高,不過值得注意的是朝鮮一役,泗川之戰時
立花宗茂曾欲援軍島津義弘但被拒而關原之役後兩人是一起逃回九州,
最後島津派援軍援助立花宗茂。 雖不知道穿鑿附會程度有多高,就上
述事蹟來看也許算是戰國軼聞。