Fw: [新聞] 本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部"嘆

作者: shinshong ( )   2014-06-24 08:55:48
※ [本文轉錄自 Japanhistory 看板 #1JgCngk_ ]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140624-00000088-san-soci
本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部“嘆願” 「四国攻め回避」説を補強
産経新聞 6月24日(火)7時55分配信
明智光秀が主君の織田信長を討った「本能寺の変」について、林原美術館(岡山市
北区)が所蔵する「石谷家(いしがいけ)文書」に土佐の長(宗我部元親(ちょうそか
べもよちか)が光秀の腹心に宛てて四国攻めに苦悩する書状があったことが23日、明
らかになった。変の要因には諸説あるが、長宗我部との関係を重んじた光秀が四国攻め
を回避するため決起した可能性を示す史料として大きな論議を呼びそうだ。
  石谷家文書は、美濃国(岐阜県)の武将・石谷光政・頼辰(よりとき)父子の書状
などで構成され、天正年間を中心とした3巻47通。同美術館と岡山県立博物館(岡山
市北区)の共同研究で、本能寺の変直前の天正10(1582)年5月21日付で元親
が光秀の側近、斎藤利三(としみつ)に宛てた書状が見つかった。
 当時の元親は四国統一の途上。ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどか
ら信長は当初の友好関係を転換し、長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求し
ていた。
 今回発見されたうち、6月2日の本能寺の変の約5カ月前にあたる1月11日付書
状では、利三が元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力してい
る」と助言。
 これに対し元親は5月21日付で「阿波国中心部の諸城からは退いたことを信長殿
に伝えてほしい」と返答。信長の命に従うことで激突を避けようとしていたことが初め
て分かった。
 本能寺の変の要因については、光秀が天下取りを目指した「野望説」をはじめ「怨
恨(えんこん)説」などがあるが、今回の発見は光秀が信長の四国攻めを回避しようと
したとする「四国説」を補強するものといえ、今後の論争に影響を与えそうだ。
 同博物館の内池英樹学芸課主幹は「この発見で50点程度だった四国説が80点ま
でになり、他説に比べ一歩抜きんでた」と話している。

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